FC2ブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

相変わらず、この国でのスポーツの扱い

この国において、スポーツとはどういうもの、何なんだろうか?
先日、午後のテレビをなんとなく見ていたら、午後のワイドショーの中でさる記者会見の模様を放映していた。
どうやらスポーツ関係らしい。ボクシング協会のお歴々や関係者がホテルの記者会見場に並び、一大発表があるらしい。世界チャンピオンのビッグマッチのプレス発表か、偉大な選手の引退か。それほどの雰囲気を漂わせていた。
そう思っていたら、なんと女子ボクシングでオリンピック出場を目指している南海キャンディーズのしずちゃんこと、山崎静代さんの記者会見だという。
「そうか、オリンピック出場が決まったか」とおもいきや、頭部の損傷があるかもしれないのでメディカルチェックの結果で「もしかしたら今後競技を続けられなくなるかもしれない」その結果の発表というものだった。
結構な肩すかしだった。

確かに、彼女にとってもし頭部に損傷が認められ、競技を続けられなければゆゆしき事態である。そうなって欲しくない。しかし、冷静に考えてみるとそれを仰々しく記者会見を開いて発表するまでのものなのだろうか?
彼女は、頑張ってオリンピック代表になる事を目指している。しかし、まだ決まったわけでもないし、有望でもない。客観的に見て、オリンピック代表になる道はかなり厳しい。いくら彼女がレベルの高いアスレティックウーマンでも、女子ボクシングの競技人口が少なくても、たかが3~4年の競技経験でのオリンピック出場は難しい。現実に、他にもっと有望で強い女子ボクシング選手はいる。

なぜ、代表にもなっていないアマチュア選手のために大げさな記者会見が開かれるのだろうか。それは、彼女はさる大きな芸能マネージメント会社所属であり、そこそこ名の売れた芸人さんであるからだ。
うがった言い方をすれば、スポーツというイメージを利用した芸人さんのプレゼンテーションでしかない。
「そんな事どうでもいいではないか」「スポーツという機会を利用して儲ければいいではないか」「スポーツを利用して儲けてなにが悪い」
そんな風潮に手を貸して、あおって儲けようとする日本のスポーツ(殆ど芸能)界とメディアとはいったい何なんだろうか?

猫ひろしという芸人さんが、マラソンのカンボジア代表でロンドンオリンピックに出場するかもしれないという。
ベストタイムは、2時間30分あたりだという。日本のどこの市民フルマラソンでも優勝できないタイムである。確かに趣味で走っている市民ランナーのタイムとしては素晴らしい。サブ3である。
しかし、世界のエリートレースで走る資格はない(たとえカンボジアに付与される特別枠であっても)。国籍変更して走ろうがどうか、関係ない。走る資格はない。

芸人さんや芸能人がスポーツを頑張る。それは普通の人が頑張ると同様、素晴らしい事だ。しかし、それはあくまでのアマチュア、趣味レベルの話。
レベルに達してもいないのにトップレベルアスリートと同様の扱いを、そして同じ土俵に上がることなどできないのが世界基準の、純粋なスポーツの世界であるはずだ。

どうやら日本という国では、スポーツはいつまでも芸能の一部で、その域を脱することができないようだ。
オリンピック金メダリストでさえ、お笑い芸人の笑いの種にされたり、「いじられたりlする風潮があるこの国では、いつまでもスポーツは芸能以下のものでしかないのか。
失望を禁じ得ない。

日本人サッカー選手の活躍

ネットでニュースをなんとなくチェックしていると、「マンU、香川に興味」「香川、来季マンUに移籍か?」などのニュースが目に飛び込んできた。マンUとは御存知、プレミアリーグの超名門クラブ、マンチェスターユナイテッドであり、世界のトッププロクラブである。

我々オ―ルドサッカーファンというか(シニア草サッカープレイヤー)にすれば、マンUというクラブは、かつてサッカーの神様の使徒、ボビー・チャールトンやジョージ・ベスト等が活躍した、サッカーの雲上人の世界だった。
当時のサッカー小僧たちは、東京12チャンネルで放映していた「ワールドサッカー」(金子アナウンサー&岡野俊一さん解説の唯一海外サッカーのゲームを紹介した番組)を食い入るように見入っていたものだったが、時折マンUの試合も放映されていた。
その雲上人の世界に、日本人選手が入団するのである。しかも、実にさりげなく当たり前のように移籍していくように報道されている。昔のサッカーを知っている者からすれば、もの凄い事なのである。

日本人のプロサッカー選手の第一号は、1977年にドイツ、ブンデンスリーガのIFCケルンに入団した、奥寺康彦選手である。「日本の選手がヨーロッパのトップリーグのプロになる」世間的にはそれほど騒がれなかったが、サッカー小僧たちの間ではセンセーショナルな出来事だった。
その後、1983年に尾崎加寿夫選手がビーレフェルトと、1984年には風間八宏選手がレバークーゼンとプロ契約を結んだ。一方、キングカズこと三浦和良選手は、1982年にブラジルに渡り、1986年にサントスFCとプロ契約を結んだ。
これが日本サッカー史におけるプロ選手の創世期である。それ以前でも、東京オリンピックやメキシコオリンピックで目覚ましい活躍をした釜本邦茂選手や杉山隆一選手がプロチームから誘いを受けていたという報道がされたことがあったが、プロサッカー選手誕生には至らなかった。

その後、1998年に中田英寿選手がセリエAのペルージャに移籍し、活躍してからは、日本にJリーグといプロリーグが存在している事もあって次第に多くの日本人選手が、プロサッカーの本場であるヨーロッパへチャレンジするようになってきた。
現在、世界各国には多くのプロおよびセミプロのサッカーリーグが存在するが、いまや世界中のリーグで日本人選手が活躍している。サッカーというスポーツがそれだけワールドワイドなスポーツである事もあるが、日本人選手が世界の様々な地域で活躍している事は、日本のサッカーレベルが確実にレベルアップしている事の証左でもある。
サッカーの世界は産業構造と同様、最もグローバライゼ―ションが進んでいる。プロ選手の流動は、まさに国境がない。そのなかで活躍する事は、ある面大変な事である。ワールドレベルの対応力、どこでも自分のサッカーができる、選手としての能力を発揮する逞しさ、技術、体力、精神力、対応力、語学習得力などが求められる。

しかし、今の選手を見ていると結構事もなげに世界に対応しているように見られる。それだけ日本国内で、基礎レベルを積み上げられるようになってきたのかもしれない。
最近、ブンデンスリーガでは、日本人選手が再評価されているように聞く。それは、香川、長谷部、内田選手などの活躍によるものだろうが、確かな技術、素早い動き、チームに献身的な態度とメンタリティー等等、日本人選手の特徴が高く評価されているようだ。
かつては、技術はあるが、フィジカルが弱いという事を指摘され、日本人は通用しないと言われてきた。しかし最近はそんなネガティブな点を指摘される事もなくなってきた。サッカーは単に頑強な肉体者だけのスポーツではない。技術、フィジカル、戦術眼、センス、メンタリィティーなど、様々な能力が高いレベル備わった者がプロとして活躍できるのである。

日本人が、世界を知ることにより基礎レベルを上げ、さらに世界にチャレンジするにより、逆に日本人の弱点を補い、それ以上に日本人の特徴を生かす事ができるようになったようだ。それが、いま飛躍しつつるある日本のサッカー選手の姿ではないかと思う。
雲上人の世界であったヨーロッパのプロサッカー界で当たり前のように日本人選手が活躍する。昔日の感がある。

本当の強さ

先のロンドンオリンピック代表選考を兼ねた競泳の日本選手権。4度目の五輪代表を決めた
北島選手がひときわ光った。光ったというより凄みのある存在であることをあらためて印象づけた。

29歳、北島選手というアスリートはいったいどういうメンタリティーを携え、どういったフィジカルコンディショニングづくりをしているのだろうか。そのタイミングにピークをあわせる技術、体力、精神力。彼の天才ぶりは充分に知れ渡っていえるが、(スポーツにおける天才とは、トレーニング、練習の天才であるというのが小生の持論だが)どういったトレーニングで高みを極めるのだろうか。北島選手は、1度ならずと、2度3度、その都度、それも4年に一度という長いスパンのなかで、それを達成してきた。

アスリートには、だれしもその競技生活のなかで、ピークを極めるタイミングがある。一度である人もいるし、ある期間維持し続ける人もいる。どんなに優れたアスリートでも好不調の波はあるし、絶不調に陥る場合もある。北島選手もアテネ五輪後、一時低調な時期があったように記憶している。しかし、ご存知のとおり北京五輪では2種目制覇という誰もが成し得ない素晴らしい結果を残した。

そして今回、長らく指導を仰いだ信頼するコーチのもとを離れ、トレーニング環境を変えた。多くの者がその選択に疑問を抱いたであろう。なぜならアスリートにとって練習環境を変える事は、普通の人間が転職する以上にリスクを冒す事と考えられているからだ。
リスクを冒してもチャレンジする。進化を求めてチャレンジする。今回も北島選手は、自己最高記録という進化した姿を見せつけ4度目の代表入りを決めた。この進化した姿こそ北島選手の凄味かもしれない。

世界の強豪相手に安定した力をみせつけたなでしこジャパンも進化している。これまではなんといっても大黒柱、沢選手中心のチームだったが、沢選手抜きでも力のあるところを見せつけた。そして各選手とも進歩している。
得意のパスワークもワールドカップ当時より、さらに進化し、安定し、クリエイティブに変貌している。かつてはアメリカに対してぎりぎりの戦いをしていたが、最近のマッチでは、進化したパス力で、アメリカを翻弄している。
沢選手なしで戦えたことでなでしこはさらに進化したが、これで沢選手をスーパーサブもしくは切り札として使える、さらなるパワフルなオプションが生まれたともいえる。
強さの秘訣、それは常に進化し続ける姿にあるといえる。

時間の観念、彼の地と日本。

時々海外に出かけると彼の地と日本との違いを感じて、日本を見つめ直す機会と気持ちが与えられる。
自分は、比較文化、文明論の専門家や社会学者でもないので体系的、社会科学的に他国と日本を比べる術や知識はない。しかし、ふと感じる事は多々ある。

今回感じたことは時間の観念である。日本人は、「自分達は時間に正確である。」と自他ともに認め、自ら誇りに思っている(ようだ。) 確かに、電車は正確に運行されているし、行事や物事もおしなべて時間どおりに執り行われていくし進行する。日本では、10秒、1分、時間に遅れただけで人間失格の烙印をおされかねない。
それに比べて他の国では、「決めた時間は目安であり、大体そのくらいの時間に集まるとか始めるとかそういった感覚」であるようだと聞かされている。だから「日本人はそんな風にいいかげんでなくて、時間に正確で立派な民族だ。」と、多くの日本人は思っている(ようだ)。

さてアメリカはというと、ビジネスの意識の高い国であり、時間には比較的正確に物事が運ばれていく。交通機関もほぼスケジュールどおり。学校も会社も教会のミサも時間どおりに始まり終わる。
ただミーティングやイベント、パーティーなどは、アバウトな開始時間でゆるく始まる場合が多い気がするし、相当厳粛なオフィシャルなケースを除き、数分遅れはあたりまえである。

しかし、日本と決定的に違うのは終わりの時間である。
アメリカでは、だいたい時間どおりに終わるし、のびても終わりの時間設定がなされる。それに比べて日本では、開始時間には厳しくても、終わり時間には厳しくない。厳しくないというか終了時間があってないようなものだ。
ことに、ビジネスミーティングでその傾向が顕著な気がする。
(日本人は確かによく働く。しかし、時間厳守で集まって開始はするが、だらだらと時間の限りがないミーティングというのは、生産性重視といいながらどう理解したらいいのだろうか。)

社会行事でもアメリカでは終りを重視する。
たとえば学校。日本では、入学式と卒業式はきっちり行われる。どちらかというと入学式が晴れやかに行われる。しかし、アメリカでは入学式は行わない。入学の事務的な手続の後に、なんとなく授業が始まり、学校生活が始まる。それにひきかえ卒業式は華やかである。高校、大学、大学院の卒業生は、ガウンとタッセル(房)つきの角帽を被り、ひとりひとり卒業、修了証書を受け取る。
式には、州や連邦政府やOBの有名な政治家や著名ビジネスマンなどが参列しスピーチをし、家族一同、時には一族郎党すべてと言っていいくらい親戚一同が参加する。学校でも卒業パーティーもあるが、それぞれの家庭でも卒業お祝いパーティーが開かれる。
高校、大学、大学院は修了(卒業)して初めて意味がある。入学したとか、在籍しただけでは意味がないというのがアメリカの考えである。

終わりの時を重視する。これには、時間を区切りその時間内で何らかの結果を出すというアメリカ社会の考え方のベースがあると感じる。ミーティングを開いて、時間を区切ってそれなりの結果を出す、それが求められる。
途中の議論や議論の展開はともかく、一応の結末を見て、次の行動に出る。
一方日本では、どういう論点がでて、どう話し合われたかがかなり重要視される。結論が出ない場合も多いし、ミーティングが開かれた事だけで評価される場合もある。

はたしてアメリカ的なすぐに結果を求める考えがいいのか、プロセスとコンセンサスを求める日本的考えがいいのか。それは一長一短があるように思える。
しかしながら、時間に正確と自他ともに任じていながら、限りある時間を有効に使っているのかという観点からすると、日本人は時間にいい加減だと言わざるを得ない気もする。

大きくなっているアメリカ人

P3230218.jpg
数年前から言われてはいたが、アメリカ人はサイズアップしている。身体が大きくなっている。とくに中西部ではそれが顕著に見える。言い過ぎかもしれないが40歳以上の人々は、大きさの違いこそあれほとんど太っているように見える。
肥満が社会問題になっている昨今、健康関連の関係機関では、注意を喚起したり、肥満防止教育も行って、それなりの策を講じているのだが、マンハッタンのビジネスマンやLAのフィットネスに熱心な人々やボウルダ―、ポートランド、シアトルのスポーツ好きを除いては、肥満傾向にある。

アメリカ人の生活スタイルを見ると太って当然の生活パターンがそこにはある。
まずは生活における活動量、運動量が少ない。仕事、買い物、その他、すべての移動は車を使う。会社、事業所でも移動距離が少ない。歩かないし、しかも階段が少ない。生活の中での消費カロリーが少ない。(日本の田舎でもその傾向があるが)
アメリカ人は、生活を楽に、エンジョイする工夫が上手いし、そのために様々なものを
産み出してきた。家庭用品や日用品などでも様々な便利用品がスーパーやホームセンターに並んでいる。時にはこんなもの必要あるのかな、という珍品もあるが。できるだけ肉体的な労力を減らし、体を動かさないで仕事や家事を行う事にまい進してきた。とはいえ日本人よりはるかにスポーツ好きで、見る事も自ら楽しむ事も好きであるが。

もうひとつ彼らが太る理由は、その食生活である。とにかくよく食べる。摂取するカロリー量がかなり多い。日本では、アメリカ人と言うと、分厚いステーキやハンバーガーを「がっつり」食べるというイメージがあるが、アメリカ人は肉だけをそれほど頻繁に食べているわけではない。その多量のカロリー摂取の原因は、炭水化物、糖分、脂肪の多量な摂取にあるのではないかと思う。
たとえばディナー。まずは前菜に多少のお肉とサラダ等。サラダにはたっぷりのドレッシング。続いてパンを食べて、その後にメインディッシュ。肉や魚に必ずポテトやライスの付け合せ。それにデザートがつきものだ。レストランではデザートを頼まなかったり、少なめにしておくことはよくあるが、家庭ではそうはいかない。招かれた場合などでは断ることは失礼にあたる(ような気になる)。それというのも家庭ではデザートこそおもてなしのなかで一番力が入るメニューだからだ。アメリカのディナーをまともにすべて平らげるのは、大食い大会にでも出たようで、最後は戦いの様相を呈する。(とくに、貧乏性の自分は残すのはいけない事だとしみついているので)
ひととおりディナーの内容をみても明らかに炭水化物、糖分、脂質が多い。
おそらくディナーだけで日本人の男性の1日の理想の摂取量2,300~3,100kカロリーを超えてしまうか、大半のカロリーを摂取してしまうのではないかと思う。

また、アメリカ人の清涼飲料水を飲む量は半端ではない。日本のラージサイズがスモールサイズである。かつて中西部の長距離トラックの運転手さんたちが集まるガススタンド兼コンビニで見た清涼飲料水の入れ物は、誇張でもなんでもなくバケツサイズの大きさだった。まさに一食分のカロリーを含んでいそうな量である。

食生活を見直す動きはかなり前から行われている。食事内容や栄養素のとり方など、また多くのダイエット食品が紹介されている。都会のオシャレなレストランやオーガニックカフェでは、量を少なくしたり油の量や栄養バランスを考慮したり、野菜を多く取り入れたメニューやベジタリアンメニューを提案している。しかし、こってりとした味が独特なアメリカ料理に慣れているので多くの人が常にそういったメニューを好むとは思えない。
(実際アメリカの、とくに地元で人気のハンバーガーショップのバ―ガ―は美味いが。)

摂取エネルギーから日常生活の活動で消費するエネルギー引いた余剰エネルギーが、異常に多いのだ。太るのは当たり前である。それを解決するのは、結局身体を動かす事、運動するしかないのではないか。

アメリカのジムの会員数は人口の10%(約3,000万人)といわれており、日本の7~10倍くらいだと推測されるが、アメリカ人の食生活が画期的にがらりと変わらないかぎりアメリカのフィットネス、エクササイズ、ダイエットマーケットはまだまだ健在である。
これだけジム、フィットネスクラブに大きなマーケットがあり、楽に行う事に努力や工夫を惜しまないアメリカ人のメンタリィティーを考えれば、新しいフィットネスエクササイが常にアメリカで生まれ、発信されるのもうなずける。
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。