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悲しい「絆」という言葉

あれだけ言われてきた「絆」という言葉がそらぞらしく感じられる。
未曾有の天災から1年たとうとしているのに遅々としてすすまない被災地の復旧。
その大きな障害が,がれきの処理だという。
その瓦礫は膨大で、被災地ではとうてい処分できないので、被災地以外での処理がすぐにでも必要である。
しかし、その瓦礫の受け入れが、多くの自治体で、住民の反対でできないでいる。

人間は、得てして動物的な側面を見せる。多種や、他のものたちはどうであれ、自分だけは自分の家族だけは、危機をのがれていたい。そうやって動物は自然淘汰のなかを生きてきた。それは、生きるものの業である。
しかし、人間はそういった動物的な生き方から成長し、共存して、時には助けあって生きていくすべを、経験として学び実践してきた。子供も本来「自分だけは優位でいたい」というような行動パターンから、成長するごとに後天的に社会性と共存性を身に着けていくという。
それが人間と動物の大きな違いである。瓦礫受け入れ反対のメンタリティーを見ていると、人間が時に見せる動物性、動物的残虐性を見せつけられているようで心が痛む。

しかし、これは動物が見せる危機回避の行動とは明らかに違う。どう考えても、宮城、岩手の瓦礫に基準以上の放射線が含まれていると考えられない。福島原発とどれだけ離れているのか。東京のほうが近いくらいだ。ましてや、原発事故が発生して以来の岩手の放射線量は、西日本と変わらないくらいだ。

この人間性、合理性のかけらもない瓦礫受け入れ反対の心理や行動は、無知と動物的残虐性と自己中心主義にかられてのもので、同じ日本人として人間として恥ずかしいし、悲しい。
震災発生直後から数か月は、同情、自己犠牲を含めて日本人の心の強さや優しさが強調されて、「絆」というワードが浮かび上がってきた。それが今どこへ行ってしまったのだろうか。
偶然に大災害に遭遇した人々は、かわいそうな人々、そのまま不幸でいろ、偶然にも遭遇しなかった人々は安穏として暮らす、幸せに暮らしているのだから余計な事をやらせないで、ということだろうか。
日本の絆、優しさ、強さはどこへ行ってしまったのだろうか。1年を経たずに、飛散してしまったのだろうか。
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