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時間の観念、彼の地と日本。

時々海外に出かけると彼の地と日本との違いを感じて、日本を見つめ直す機会と気持ちが与えられる。
自分は、比較文化、文明論の専門家や社会学者でもないので体系的、社会科学的に他国と日本を比べる術や知識はない。しかし、ふと感じる事は多々ある。

今回感じたことは時間の観念である。日本人は、「自分達は時間に正確である。」と自他ともに認め、自ら誇りに思っている(ようだ。) 確かに、電車は正確に運行されているし、行事や物事もおしなべて時間どおりに執り行われていくし進行する。日本では、10秒、1分、時間に遅れただけで人間失格の烙印をおされかねない。
それに比べて他の国では、「決めた時間は目安であり、大体そのくらいの時間に集まるとか始めるとかそういった感覚」であるようだと聞かされている。だから「日本人はそんな風にいいかげんでなくて、時間に正確で立派な民族だ。」と、多くの日本人は思っている(ようだ)。

さてアメリカはというと、ビジネスの意識の高い国であり、時間には比較的正確に物事が運ばれていく。交通機関もほぼスケジュールどおり。学校も会社も教会のミサも時間どおりに始まり終わる。
ただミーティングやイベント、パーティーなどは、アバウトな開始時間でゆるく始まる場合が多い気がするし、相当厳粛なオフィシャルなケースを除き、数分遅れはあたりまえである。

しかし、日本と決定的に違うのは終わりの時間である。
アメリカでは、だいたい時間どおりに終わるし、のびても終わりの時間設定がなされる。それに比べて日本では、開始時間には厳しくても、終わり時間には厳しくない。厳しくないというか終了時間があってないようなものだ。
ことに、ビジネスミーティングでその傾向が顕著な気がする。
(日本人は確かによく働く。しかし、時間厳守で集まって開始はするが、だらだらと時間の限りがないミーティングというのは、生産性重視といいながらどう理解したらいいのだろうか。)

社会行事でもアメリカでは終りを重視する。
たとえば学校。日本では、入学式と卒業式はきっちり行われる。どちらかというと入学式が晴れやかに行われる。しかし、アメリカでは入学式は行わない。入学の事務的な手続の後に、なんとなく授業が始まり、学校生活が始まる。それにひきかえ卒業式は華やかである。高校、大学、大学院の卒業生は、ガウンとタッセル(房)つきの角帽を被り、ひとりひとり卒業、修了証書を受け取る。
式には、州や連邦政府やOBの有名な政治家や著名ビジネスマンなどが参列しスピーチをし、家族一同、時には一族郎党すべてと言っていいくらい親戚一同が参加する。学校でも卒業パーティーもあるが、それぞれの家庭でも卒業お祝いパーティーが開かれる。
高校、大学、大学院は修了(卒業)して初めて意味がある。入学したとか、在籍しただけでは意味がないというのがアメリカの考えである。

終わりの時を重視する。これには、時間を区切りその時間内で何らかの結果を出すというアメリカ社会の考え方のベースがあると感じる。ミーティングを開いて、時間を区切ってそれなりの結果を出す、それが求められる。
途中の議論や議論の展開はともかく、一応の結末を見て、次の行動に出る。
一方日本では、どういう論点がでて、どう話し合われたかがかなり重要視される。結論が出ない場合も多いし、ミーティングが開かれた事だけで評価される場合もある。

はたしてアメリカ的なすぐに結果を求める考えがいいのか、プロセスとコンセンサスを求める日本的考えがいいのか。それは一長一短があるように思える。
しかしながら、時間に正確と自他ともに任じていながら、限りある時間を有効に使っているのかという観点からすると、日本人は時間にいい加減だと言わざるを得ない気もする。
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まとめteみた.【時間の観念、彼の地と日本。】

時々海外に出かけると彼の地と日本との違いを感じて、日本を見つめ直す機会と気持ちが与えられる。自分は、比較文化、文明論の専門家や社会学者でもないので体系的社会科学的に他国...

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