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こども達にチャンスを

先日、上田市内にある知的障害者支援施設が運営する小さなカフェに打ち合せで行った。
こじんまりとした店内には、テーブルが3つ置かれて、10数人程が入れるほど。壁には、イラストっぽい絵や抽象画のような絵が十数点飾られていた。こどものような稚拙な絵もあり御世辞にも上手という絵ばかりではないが、中には独特な感覚、タッチの絵もあった。絵画アートの専門家ではないので絵の評価などはできないが、これならTシャツにプリントしても面白いのでは、という絵もあった。

これらの絵は、この支援施設に通ってくる入所者が描いたものだ。この施設のディレクターに聞いたところ、この絵を描いた方々は、言葉ができない、理解できない障害者だという。地道に指導した結果、絵を描くという表現法に出会い、絵を描く事で自己表現している。
根気よく指導される職員の方々の努力には頭の下がる思いだが、絵を描くという自己表現に出会って、知的障害者の方々も、日々成長している。彼らはある面チャンスを与えられたのではないか思う。

子供達が運動しなくなったと良く聞く。正確に言うと運動やスポーツをする子としない子の2つにわかれているという事だ。運動やスポーツをおこなっている子は小さな頃から複数のスポーツを、指導者のもとで楽しんでいる。反面そういうチャンスに恵まれない子はほとんどしない。ましてや昔のように外で遊ぶ機会も減っており外で
身体を動かさない。それは自ら拒否しているのか、それとも回りの環境がそうさせるのか。

本来、子供は外での遊びの中で、走り、飛び、登り、転がりそういった動作の中でごくナチュラルに身体機能を成長させていく。運動やスポーツはそういった遊びを進化させ、ルールや社会性を織り込んだもので子供達はそれを体験することで、身体の成長のみならず人間としての資質を磨いていく。

子供達が運動やスポーツをしなくなった。それはどういう事か。それはかれらが求めるものを提供できていない大人、社会の責任ではないか。経済的に余裕があり、理解のある大人、親の育てられた子供は問題がない。しかし、
理解のない親に育てられた、もしくは不幸にもそういう環境にない子供は、チャンスを与えられない。

社会は豊かになったという。なんでも手に入る。その結果か、ゆとり教育なんていう考えがまかりとおり、教育にもかえって格差が生まれた。

人間の可能性は、無限だと言われる。だがそのスタートというべき時期にチャンスが与えられなければ可能性も生まれない。これは何も、スポーツだけではない。アートでもアカデミックな分野でも、産業技能でも、語学でも、すべての分野にあてはまる。
豊かでない時代であったら、チャンスは自分でつかむもので、それは自己責任であった。しかし現代は豊かな時代(と我々が自ら評している)であり、自然淘汰が当然の弱肉強食の時代ではなく、共生の時代である。

粗悪な環境に育ったから、親が無知、親にネグレクトされたから、だからチャンスが与えられない。そしてそれが次世代へ継承されていってしまう。豊かな時代に存在する矛盾というべき負の連鎖が存在している。

子供達には、せめてスタートラインではチャンスを与えたい。
それは、明らかに我々大人の責務である。
チャンスを与え、厳しくも、優しく育て、共に成長していく。
自分達が成長していくためにも子供達にはほんの少しでもチャンスのきっかけを与えてあげたいと切に思う。
120531_140230.jpg(フォトは記事とは直接関係ありません)
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